ローストチキン

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本日のメインディッシュ!ローストチキン!!

妻と二人で1匹丸ごと食べました。(ゲプッ)

ローズマリーたっぷり。

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内蔵が入っていた部分には、スタッフィングが詰まっています。さいの目に切ったタマネギとニンジン、ほぐしたシメジ、洗った米をオリーブオイルで炒めたものがスタッフィング。炒めるときにローズマリー、タイム、オレガノとニンジンの葉を入れると香りが良いです。お米が麦などに替わっても美味しいのかもしれないですね。アレンジはいろいろできそう。

ローズマリーは丸鶏の表面にこすりつけてから焼いています。

チキンと一緒にジャガイモをオーブンに入れるとこんがりカリカリになって美味です。

ローズマリーが効いて、中はジューシー、外はカリカリ。鶏のいろいろな部位が食べれて本当に美味しいです。肉体疲労時にこれを食べると、翌朝に体が軽くなったように感じます。良質のタンパク質とローズマリー等々の効果でしょうか・・・?

ハーブティー

コーヒーにミルクを入れたカフェオレを愛飲するが、あまり飲み過ぎると飽きてくる。すると、紅茶に切り替わるのだが、これにもミルクを入れて飲むから、やはり飽きてくる。そこで、ハーブティーを飲む。

マグカップに入れたミントの芽。

お湯を注いでできあがり。いい香りが・・・。

庭に出てハーブをつまんでマグカップに放り込み、お湯を注ぐ。簡単だ。庭にはクールミント、オーデコロンミント、オレンジミント、キャンディミント、チョコレートミントなどのミント類と、レモンバーム、タイム、オレガノ、バジル類、ゼラニウム、レモングラス、ローズマリー、シソなどハーブと呼ばれるものは結構ある。その中でお気に入りは、レモンバームとオレンジミント、キャンディミントは2芽ずつ、クールミント、ステビアは1芽ずつつまみ、一緒にカップに放り込んでフレッシュハーブティーにする。クールミントは入れすぎると、ミントガムやフリスクみたいになってしまうので、少しだけ、ステビアも入れすぎると甘くなって苦みも出てくるのでこれも少し。

ハーブティーなんて、妻に会わなければ縁遠かったものの一つだと思う。こんな強烈な匂いのするもの、飲めたもんじゃないと思っていた。しかし、イギリスで妻が飲んでいたのが、モロッカンミントのお茶だった。これをおいしそうに飲んでいる彼女の姿を見て、自分でも飲んでみたくなった。こっそり彼女の畑からモロッカンミントの芽を摘み取って持ち帰り、お湯を入れて飲んでみた。「あぁ、やっぱり。」これは強烈だなぁ、と思いながらすすり続けていると、不思議なことにやみつきになってくるではないか。シトラスとミントの香りの中にほんのり甘みと苦みが感じられた。それ以降、ちょくちょく彼女の畑に行ってはこっそりモロッカンミントの芽とレモンバームの芽を摘み取り、ハーブティーにして飲んでいた。 レモンバームはミント類よりも飲みやすく、レモンに似た香りは元気をくれる。

モロッカンミントと呼んでいたけれど、有名なモロッコのミントティーに使うミントらしい。日本ではそんな名前のミントに出合ったことがない。もしかしたらオレンジミントとか別の名前で出ているのかもしれない。でも、ミントを同定するって形態的に特徴的なものじゃない限り難しいだろうな。ミントはとにかくいろんなミントがあるから、色々と集めてお茶にしてみたら楽しそうだ。

ミントに限らずハーブは庭に植えておいたら楽しい。草むしりしながらおしりがハーブにぶつかるとふわっと香が漂って、感覚が刺激される。スイートバジルなんかが香ってくると、ピザやパスタが脳裏に浮かんで作業に集中できなくなることもあるから、気をつけないと。

 

セミの声

日中はまだ日差しが強く、熱いと感じる時があるものの、朝晩は肌寒くなってきた。

今週はほとんどアトリエ詰めで、事務処理やウェブのアップ、チラシ作成、調査、プランニングシートを作ったり図面を引いて、ああではないこうではないと独りブツブツ言ったりする仕事が多かった。

週の前半に近所で水道管の工事があって、窓を開けているとけっこうノイズが多かった。その工事も3日間ほど続き、一昨日には終了したようで静かになった。夕方にはきれいな鳥の声が聞こえてきて、はっとさせてくれる。

昨晩からプランニングや発想の源に、雑誌 Gardens Illustrated のバックナンバーを見返してきた。今朝は空気が澄んでいて、薄雲がかかっているのか、日差しはやわらかい。この空気感と遠くの方で聞こえた航空機のノイズ、そして今見ている雑誌の写真。ふと、2年間住んだ Wisley の光景がフラッシュバックしてきた。心地いいな、と夢想していると、ふと気づいた。セミの声がしない、と。イギリスにはセミがいなかった。だから、夏の間は気候も空気感も日本の5月や10月くらいの感覚で、心地よかった。

セミの声は、日本の夏を象徴づけるものの一つだと思う。天気予報ではまだ真夏日が報じられているが、朝夕にセミの声も湿った空気もほとんど無くなったここ高知は、もう秋が始まった。

セミの声がなくなると、どこか哀愁じみてくる。夏の間に暑くて休んでいた植物を見ると、ぐぐっと動き始めている。しかし、その動きは、初夏の頃のように透明感のある生命力あふれた動きではない。これから始まる冬に備えて養分の備蓄や種子を作ったりするための動きだ。春から夏の間に一層たくましくなった枝葉には、傷や虫喰いのあとが見られる。その枝葉で、養分をつくったり、花を懸命に咲かせて、冬に備え、次の春に備えているのである。植物は自然が何千何万回も繰り返してきた時の移ろいに身を任せ、それに順応し巧みに生きて、次の時間へとつないでいるのだと実感する。

虫の音を楽しむ文化は、時の移ろいを楽しみ充実した時間の感覚を提供してくれると思う。アブラゼミやクマゼミ、ヒグラシは夏のイメージを特徴付けてくれる。 スズムシやカンタンの鳴き声はなんとも雅で、秋の始まりを気づかせてくれる。

自然の営みに意識を向けて自然の変化を感じることは、カレンダーや時計が教えてくれるような人が決めた時間ではない。人間が生き物として自然の中の一部として暮らしているのだという、大きなことを感じさせてくれる。自然の一員であることを感じることは、自然の営みという大きな流れの中に存在することの実感であり、生きることへの励ましのようにも感じる。このような自然の時間の変化を感じられることが、日々の中で感じられる幸せの一つだと思う。

このような感覚を大切にしながら、ガーデンを作っていきたいと改めて思うのであった。

一人になって気づくこと

今、妻が実家に帰省している。

ついに夫に愛想が尽きたか、という訳ではない(と信じたい)。実家のお店の手伝いに行っているのだ。夏季休暇の消化も兼ねている。

私も一緒に帰省しようと思っていたが、仕事と経済的な理由から、一人高知に残ることになった。

たかが一週間だが、一つ屋根の下で一人で過ごすというのは何年ぶりだろう。妻が出張でいないことがあったが、それを除けばウィズレーガーデン(Wisley Garden)での日々以来だから、3年ぶり。 でもその時はフラットと呼ばれるシェアハウスに同期の研修生と一緒に住んでいたので、正確には一つ屋根の下で一人だったわけではない。となれば、学生時代までさかのぼるのか。

妻が帰省して2日目の今日、気づけば学生の時と変わらない生活をしている気がする。仕事の時間は別として、食事、睡眠、風呂のリズムや内容が不規則になってきた。

特に食事は単調になる。先日送られてきたパンをモグモグ食べて、カフェオレかミルクティーを飲む。一日3食のうち、2食はこれで賄ってしまう。昨日はそれに加えて野菜炒めの残りを冷蔵庫で見つけてカンパーニュを主食にして食べた。今日の昼は、冷蔵庫に先日のパスタに使った残りの明太子が転がっていたから、これを焼いてお米を食べた。ついでに気を遣って野菜ジュースも飲んだ。夜はまたパンとカフェオレで済ました。

おいしいパンたち。

送られてきた「のはらぱん」さんのパンは種類があってとてもおいしいから飽きない。それにオーブンで焼けばいいのだから簡単においしく食べられる。お気に入りのピーナッツクリームもたっぷりある。

調理して洗い物をする「面倒くささ」と「食欲」を天秤にかけて、食欲が負けているのだと思う。一人で過ごすというのは、こういった体力と欲求の間で「行動の効率化」が行われていることにふと気づいた。調理したりするモチベーションが高まらない時は、多少食欲があっても、簡単な食事で済ますことが多い。金銭的に余裕があれば、外に食べに行くかもしれないが、外に出ることすら億劫になることもある。まさに、私が経験してきた学生生活そのものではないか。

なぜ妻と一緒に生活していると、学生時代のようなライフスタイルにならないのだろう?

妻がおいしい料理を作ってくれるときはありがたく食べる。二人で食卓を囲むわけだから、時間も規則正しくなる。私が料理する時は、彼女がおいしいと思えるものを作ろうとする。 これは「思いやり」というものではないか。

一人暮らしと大きく違う点は、この思いやる気持ちがあるかないかだと思う。 もちろん自分自身を客観的にとらえた時に思いやりというものが無いことはないが、自分の体であるから、その限界の加減がわかりやすい。しかし、他人の加減というのは、一様ではないし、その人との距離感によって把握しやすが変わっている。だから、他人と過ごす時は、できるだけ思いやりの気持ちを持つのだと思う。思いやりの気持ちが高まると、それは行動になってあらわれる。

言い換えれば、人は思いやる人に突き動かされているのだ。「あの人のためにデザートを用意しておいたら、喜んでくれるかな」、「あの子は調子が悪そうだから、おいしい料理で喜ばせてあげたい」などは、相手を思いやっているから行動となるのである。相手との距離が近ければ、思いやりは愛情になって、より持続的な行動力になるのだろう。

しかしながら、よりによって愛情というものは時に薄れることがある。人の心というのは器用ではないから、あっちに気が取られ、こっちに気が取られているうちに、愛情への意識が弱くなる時がある。

話はえらく長くなったけれど、一人暮らし2日目で、やはり妻といる生活がありがたいものだと感じた。そして愛情が薄くなっていないか、自分をたしなめたのであった。