一人になって気づくこと

今、妻が実家に帰省している。

ついに夫に愛想が尽きたか、という訳ではない(と信じたい)。実家のお店の手伝いに行っているのだ。夏季休暇の消化も兼ねている。

私も一緒に帰省しようと思っていたが、仕事と経済的な理由から、一人高知に残ることになった。

たかが一週間だが、一つ屋根の下で一人で過ごすというのは何年ぶりだろう。妻が出張でいないことがあったが、それを除けばウィズレーガーデン(Wisley Garden)での日々以来だから、3年ぶり。 でもその時はフラットと呼ばれるシェアハウスに同期の研修生と一緒に住んでいたので、正確には一つ屋根の下で一人だったわけではない。となれば、学生時代までさかのぼるのか。

妻が帰省して2日目の今日、気づけば学生の時と変わらない生活をしている気がする。仕事の時間は別として、食事、睡眠、風呂のリズムや内容が不規則になってきた。

特に食事は単調になる。先日送られてきたパンをモグモグ食べて、カフェオレかミルクティーを飲む。一日3食のうち、2食はこれで賄ってしまう。昨日はそれに加えて野菜炒めの残りを冷蔵庫で見つけてカンパーニュを主食にして食べた。今日の昼は、冷蔵庫に先日のパスタに使った残りの明太子が転がっていたから、これを焼いてお米を食べた。ついでに気を遣って野菜ジュースも飲んだ。夜はまたパンとカフェオレで済ました。

おいしいパンたち。

送られてきた「のはらぱん」さんのパンは種類があってとてもおいしいから飽きない。それにオーブンで焼けばいいのだから簡単においしく食べられる。お気に入りのピーナッツクリームもたっぷりある。

調理して洗い物をする「面倒くささ」と「食欲」を天秤にかけて、食欲が負けているのだと思う。一人で過ごすというのは、こういった体力と欲求の間で「行動の効率化」が行われていることにふと気づいた。調理したりするモチベーションが高まらない時は、多少食欲があっても、簡単な食事で済ますことが多い。金銭的に余裕があれば、外に食べに行くかもしれないが、外に出ることすら億劫になることもある。まさに、私が経験してきた学生生活そのものではないか。

なぜ妻と一緒に生活していると、学生時代のようなライフスタイルにならないのだろう?

妻がおいしい料理を作ってくれるときはありがたく食べる。二人で食卓を囲むわけだから、時間も規則正しくなる。私が料理する時は、彼女がおいしいと思えるものを作ろうとする。 これは「思いやり」というものではないか。

一人暮らしと大きく違う点は、この思いやる気持ちがあるかないかだと思う。 もちろん自分自身を客観的にとらえた時に思いやりというものが無いことはないが、自分の体であるから、その限界の加減がわかりやすい。しかし、他人の加減というのは、一様ではないし、その人との距離感によって把握しやすが変わっている。だから、他人と過ごす時は、できるだけ思いやりの気持ちを持つのだと思う。思いやりの気持ちが高まると、それは行動になってあらわれる。

言い換えれば、人は思いやる人に突き動かされているのだ。「あの人のためにデザートを用意しておいたら、喜んでくれるかな」、「あの子は調子が悪そうだから、おいしい料理で喜ばせてあげたい」などは、相手を思いやっているから行動となるのである。相手との距離が近ければ、思いやりは愛情になって、より持続的な行動力になるのだろう。

しかしながら、よりによって愛情というものは時に薄れることがある。人の心というのは器用ではないから、あっちに気が取られ、こっちに気が取られているうちに、愛情への意識が弱くなる時がある。

話はえらく長くなったけれど、一人暮らし2日目で、やはり妻といる生活がありがたいものだと感じた。そして愛情が薄くなっていないか、自分をたしなめたのであった。

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